ご由緒

ご由緒記

(ご祭神)
天武天皇
人皇四十代の天皇でましまし、日本の国柄を明らかにする為、特に修史の事に大御心を用いさせました。かの「古事記」、「日本書紀」の編纂も天皇の思し召しによってなされたものであります。又敬神の御心に篤く、神宮の二十年毎に行われている式年遷宮の制度は天皇の御代にはじめられたものであります。

素盞鳴尊
皇祖天照大神の御弟神であり、勇武にましまし、国土の発展、民生の福祉に力を尽くされました。又、疫病平癒、災難除け、芸能等の神様として崇敬が篤いのであります。

大山咋命
素盞鳴尊の御孫神にましまし、御父神を大年神と申し、御子神は賀茂別雷命と申します。古来土地開発の神、酒造の神として、また、朱塗りの矢になり玉依比売命と結ばれた事により、縁結びや子授かりの神様としても崇敬が篤いのであります。

天水分神・国水分神
御親神を速秋津日子神、速秋津比売神と申し、人間生活の、否一切の生物の存在に欠くことの出来ない水を主宰される神様であります。また、御祭神の御名「ミクマリ」が「ミコモリ」と訛り、子守明神と称され安産や子育ての神としても崇敬が篤いのであります。


(本社)
創紀の年代は詳らかではありません。(もと宮地は高地でありましたが、附近一帯は沼沢地でありましたため度々水害に見舞われ、そのため社記その他の古文書が流失したといわれています。)

口碑の伝える所によりますと、天武天皇が皇居であった、大和国飛鳥浄見原宮から難波宮に舎人親王多比古麿等を従えて行幸遊ばされた際、当所に御休憩遊ばしたと申します。当時この地は高地で樹木が鬱蒼と茂り見晴らしがよく、住之江の海(今の住吉)に浮かぶ白帆が見え憩うには格好の場所であったようであります。ここにしばし御休憩遊ばした天皇は「吉野はどのあたりになるのであろうか」と吉野の方をかえり見られたというので、今に「吉野見」の地名(小路三丁目三番吉野見通り)を存しています。

天皇崩御の後、この地に縁のあった大伴氏が、社を建て天皇の御神霊をお祀りし、天武天皇宮と称し崇敬したと伝えています。

その後天慶九年(西暦九四六年)社殿を再建、随時修理し、明治五年に天武天皇宮を清見原宮と改められました。

明治四十二年四月十日、時の政府の、神社を合祀して神社維持の基礎を確立し祭祀を厳修する、という方針に基づき大阪府から神社合祀の指令を受けました。よってこの指令に従い、当時片江村に素盞鳴尊神社、中川村に松尾神社、腹見村には木守勝手神社、大瀬村には八釼神社が鎮座していましたが、各神社の総代が種種に協議の結果、当時の小路村の中央であり、学校の所在地であった大友村鎮座の清見原宮に合祀する事になり、同年七月三十日夜、誠に厳粛なる合祀の儀が行われ、翌三十一日には合祀大祭が夏祭を兼ね盛大に執行されました。社号は、村名「小路」をとって小路神社と称せられました。その後年と共に発展に発展を重ね今日に至るのであります。

現社号清見原神社は皇紀二千六百年記念事業として行われた、境内拡張、社殿、社務所増改築玉垣建設等を機に昭和十七年五月に改称されたのであります。

また、平成21年7月には、周辺神社合祀百周年を記念して、「平成の大改修」と銘打ち、ご本社の社殿の増改築事業を行い、また翌年5月には「合祀百周年祭」として被合祀神社の旧鎮座地への渡御祭や稚児行列などを行い、ご神威愈々高まり現在に至っております。


(末社) 春高稲荷社
当社はもと片江素盞鳴尊神社の境内におまつりされていましたが、本社の合祀と共にここに遷されたのでありますが、東大阪において極めて古いお稲荷さんとして御神徳誠にあらたかで崇敬される方の大変多いのであります。御祭神は宇賀御魂神、大宮売神、猿田彦神の三神であり、五穀豊穣の神でありますと共に広く産業経済発展の守護神であらせられます。


(末社)祖霊殿御由緒
祖霊殿には、大東亜戦争に於いて、当神社氏子地区より戦地に赴き、不幸にも戦死されし方々四百七十余柱の御英霊並びに当神社関係物故功労者を合祀する。旧祖霊殿は、江戸時代中期建設の旧社務所を移築せしものなれば、老朽甚だしく平成五年七月遂に屋根の一部崩落す。そして氏子中より多くの浄財を募り、平成六月春より御造営を始め、平成七年四月二十九日終戦より五十年、遂に現祖霊殿が竣工し、盛大に竣工奉告祭が斎行され今日に至るのであります。

鎮座地

大阪市生野区小路2-24-35
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